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チェルフィッチュ×金氏徹平による劇場版『消しゴム山』(作・演出:岡田利規、セノグラフィー:金氏徹平)が
202121114日、東京・東池袋の「あうるすぽっと」で上演された。1910月に京都国際舞台芸術祭で行われた劇場版の初演は残念ながら見ていないが、続編として202月に金沢21世紀美術館で発表された『消しゴム森』や同年5月〜10月にインターネット上のYouTube動画及びロームシアター京都の壁面モニターでも展開された日常空間版『消しゴム畑』の成果も踏まえ、今回の東京公演という流れになっている。

 

舞台上にはいろんなモノが所狭しと置かれている。また、開演前には視覚障害者や一般の希望者向けに無料で貸し出された骨伝導式イヤホンによる音声ガイド『山がつぶやいている』(岡田の書き下ろしテキストを太田信吾が読み上げたもので、内容の充実ぶりは単なる解説の域を越えていた)の動作チェックも実施された。やがて6人の役者たちが登場。冒頭で安藤真理がプラスチック配管のジョイント部分にまたがり、両手に持った50センチ四方程度の板状スポンジを翼のように広げて静止し、その姿を他の役者たちがじっと見ているシーンがあった。安藤のパフォーマンスはその場にあるモノたちが漂わせている空気感を読み取って全身で反応したものであり、ここでのモノと人間の関係性は従来の芝居でモノが「小道具」として人間の目的のために従属させられていたあり方とは根本的に異なっている。その時、イヤホンから「モノと(人が)たたずまいの波長を照らし合わせます」というナレーションが流れた。なるほど。まさにこの作品で構築しようとする新しい関係性の宣言となっていた。

 

第一部では、洗濯機のバックフィルターが脱落して使えなくなった男(矢澤誠)のエピソードが語られる。一度は自分でフィルターをはめ直したが、「再稼働させてもまた外れる」という物言いが何となく原発事故を思い起こさせる。業者のマツオカ(米川幸リオン)が修理に来るが、15年以上前の製品なので交換用部品はもうないかもしれない、という。とりあえず確認してもらうが、やはり在庫はなかったと連絡がある。

 

同じく洗濯機が壊れた女(板橋優里)に対し、業者は引き取りを申し出るが、女は今までの思い出が蘇ったのか、急に洗濯機を「この人」と呼ぶようになり、「この人」を寝室へ運ぶので手伝ってほしいと依頼する。やがて人々が集まり、洗濯機に向かって弔辞を述べたり、御前に次々とモノを持ち寄ったりして、葬儀的なことが執り行われる。イヤホンからは「洗濯機ではない別の何か、次の何かに変わろうとしています。青空が広がっています」と厳かな声が響き渡る。

 

別の女(青柳いづみ)は連休中に自転車でコインランドリーへ行く。洗濯物を放り込んで仕上がりを待っていると、背のすごく高い人やArizonaと書かれたプリントTシャツを着た人、脚が太いのに短パンを穿いている人などが入って来る。聞けば、彼らも皆、バックフィルターが外れたという。全員一様に同じ理由で洗濯機が壊れたのは奇妙だとお互い首をひねる。

 

第二部は、大小さまざまな穴の集合体からなる見慣れないモノが公園の遊具に混じって置かれていたことから始まる。男(米川)は好奇心をかき立てられ、周囲を何度も回ったり、地面に近い下部を覗き込んだりする。舞台上の細長いパネルに全身を映し出された青柳から「これは何だと思う?言ってみなよ」と問われ、彼は恐る恐るエアコンまたはゴミ処理装置と口に出す。それに対して青柳は「これはタイムマシン」とこともなげに言い放った……。ここまでは美術館版『消しゴム森』でも「映像演劇」として展示されていたが、その後のストーリー展開は今回初めて見ることができた。他の4人が登場し、タイムマシンで現代へ着いた未来人たちが参政権を要求していることに関して政府要人らが対応を協議する様子を演じた。政府は未来人の存在についてメディア規制を行っており、一般国民はまだ知らないという。ここではとりあえず問題を先送りして今をやり過ごすことだけに全力を注ぎ、未来にどんな結果をもたらすかを何も考えていない刹那主義的な政治(安全な処理方法を見つけられない放射性廃棄物や際限なく増え続ける国債発行などが岡田の念頭にはあると思われる)に対し、未来人が口を挟みたくなるという強烈な皮肉が込められていた。そして、このエピソードを第一部に無理やりつなげてみると、洗濯機の故障には未来人のタイムトラベルが関与しているような気もしてくる(因果関係のよくわからない妄想に過ぎないが)。

 

最後の第三部では、モノの演劇が繰り広げられる。舞台上の一角がモノたちをビデオカメラで撮影するスタジオとなり、その映像を別の場所に並べた2枚の細長いパネルにリアルタイムで映し出す。カメラの前に次から次へとモノを置き変えていく人間はあくまでも裏方であり、主役はモノたちだ。そこへいきなり酔っ払いみたいな人(矢澤誠)が乱入し、モノの演劇はしばらく中断する。彼は「スマートでフレキシブルな振る舞いができる連中」から「残念な人間たち」と呼ばれたことに憤懣やる方ない様子だ。身体を震わせながら、熱っぽい口調で「私たちは見捨てられた」と訴える。従来のチェルフィッチュ作品では、社会に不満があっても真正面から非難したりせず、どこか斜に構えながらやんわりと諭すような感じで、基本的には順応性の高い優等生的な人物ばかりが登場するイメージがあった。そのため、今回も彼が喋り終えた後で、その異様な真剣さを中和するために何らかのコミック・リリーフ的なオチが用意されているはずだと思った。しかし、それはなかった。彼の退場とともに、何事もなかったかのようにモノの演劇が再開されただけだった。私は本気で面喰らった。あの変な人は一体何者だったのか?イヤホンからは「地殻の変動、新しい表面の誕生」といったフレーズも聞こえる。今後、新型コロナウイルス感染症の騒ぎが終息した暁には、ますます貧富の格差が拡大し、社会の分断は救いがたくなっているかもしれない。そうした中で、岡田自身はあくまでも弱い人々の側に立つという意思を表明したようにも感じられた。

  

哲学者のカントに「物自体」という概念がある。人間が完全には知ることのできない物の本質といったニュアンスで使われる。人間は五感というセンサーを通じて物を把握する以上、どうしても一方向からしか見られない上、錯覚という恐れも常につきまとう。そんな不完全な認識者である人間が知覚できるのはせいぜい物がその都度に見せてくれる表情としての現象に過ぎず、物の本質そのものすなわち「物自体」には決して到達できないという不可知論である。

 

今回の『消しゴム山』でも、人間は必ずしも周囲に溢れかえっているモノの本質を理解できるわけではない、という前提に岡田は立っていると感じられた。モノと人間の間には越えられない溝があり、そこから時にはユーモラスでもある独特な薄気味悪さが醸し出される。一方で、マクロなレベルから見れば、時折り大災害を引き起こす自然もまた「物自体」である。そんな自然の本質を残酷な形で見せつけたのが10年前の3.11(東日本大震災)だった。あの時に人々の口から漏れた「想定外だった」という弁明はまだ記憶に新しい。しかし、人間が「物自体」について知り得ない以上、自然の振る舞いを完全に予測することはもともと不可能なはずだ。それにもかかわらず、自らの無力さを受け入れがたい人間は、科学の進歩によって自然を支配できると軽信したり、モノたちを思いのままに操れると勘違いしてしまう。


この作品では、そのような傲慢さによって歪められてしまったモノと人間との関係を再び対等に置き直すことを目論んでいるのではないだろうか。そのためには人間の愚かさをどこか高い所から見下ろすような人間以外の視点が必要になる。作品中で、現代人とは利益相反関係にある未来人に異議申し立てを行わせたのも、そうした試みの一つとして面白かった。また、米川幸リオンが公園で遭遇した不思議な物体について語りながら、不自然なほど顔を上に向け、まるで天に訴えかけるような姿勢を取っていたことは、何か宗教的な救いを求めているようにも見えて興味深かった。今もまさに多種多様な宗教が世間に氾濫しているが、教祖と信者の人間関係だけで完結してしまうような物分かりのいい宗教では役に立たないのである。人間の無力さをとことん痛感させる視点を想像力によって作り出すこと。それこそ、岡田が自らに課した要求だったような気がする。