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血パンダ「ときはててのち」(作・演出:仲悟志)が2月19・22〜23日、富山県射水市の内川Studioで上演された。

白いカウンターやテーブルとソファの配置、会話などから、そこはホテルのフロントと察せられるものの、劇が始まってからしばらくは彼らがなぜこれほど怯えているのかわからず、ふわふわと宙に浮かぶような気持ちにさせられた。「世界が終わった後」というフレーズが何度か発せられたが、具体的な時代設定を割り出すためのヒントにはならない。それに、世界はなぜ終わってしまったのかについても、時間と空間が歪んでしまったため、と説明されるだけだ。謎だらけの近未来SFだが、次第に独特な世界観へと引き込まれてしまった。

黒縁メガネを掛け、ゴスロリ風の衣装でロビーに佇む女性支配人(田林甫奈美)は、カウンターの後ろに置かれたラジオのスイッチを入れる。彼女は暇さえあれば双眼鏡で窓の外を眺めている。また、部屋の掃除などを担当している従業員らしいコシバという男(こしばたくみ)は、時空の狭間に迷い込んだ人間が押し潰されて干からびてしまう「ドロップ」という現象を非常に恐れており、興奮のあまり支配人と口論になったりする。

彼ら自身、時間と空間がなぜこのように歪んでしまったのかを全く理解できず、イライラしながらも、ねじれた世界の中でどうやって生きて行けば良いのかを自問自答している。他人に訊いても、誰も答えられないことを知っている。そもそも目の前の他人が自分と同じ時空にいるとは限らず、まともな会話が成り立ちにくい。こうした世界観を表現するため、役者たちのセリフは相手に投げかけるというよりは自分を確認するために独り言を呟き続けるようだった。

そこへロガーと呼ばれる男(金澤一彦)が客として登場する。開演前に配布された資料によれば、彼はその名の通り、押し潰される危険を承知の上で、実際に歪んだ時空の中をあちこちと旅してみることにより、人々が少しでも安全に移動できるルートを探して記録しているらしい。そんな彼も過去には「スリップして(別の時空に存在する)自分に会った」と下手したらドロップしかねなかった体験を持つ。彼は苦い表情を崩さないが、決して諦めたわけではない。帰って来られなくなる恐怖と戦いながら、新しい世界地図の作成に意欲を燃やし続ける。

そもそも時空の歪みとは、どういうことなのか?例えば、舞台上に3人いる場合、AとB、AとCはそれぞれ会話できたとしても、BとCは時空の歪みによってお互いが見えなかったりもするようだ。劇中では2人が同じ時空を共有した状態を「クロスしている」と呼んでいた。このような設定はあまりにも空想的であり、我々の日常生活とは無縁に思われるかもしれない。しかし、例えば、目の前の人が携帯電話で遠くの誰かと喋っている時、その人は同じ空間にいる私よりも通話の相手とむしろ密接につながっているわけであり、私とその人の希薄な関係性は「同じ平面に立ちながら存在している時空が違う」とは言えないだろうか。この作品はまさにモバイルコミュニケーションが地球上の津々浦々にまで浸透した現代のあり方を反映しているとも感じられた。

舞台から少し離れ、ちょうど客席の真横に木製パネルで囲われたFMラジオのスタジオが作られている。小さな窓から中を覗き込むと、ヘッドフォンをかけた女性(長澤泰子)が「冬はマフラーで寒さ対策…」みたいなありふれたトークを繰り広げており、隣の男性(二上滿)が相槌を打つ。その放送がホテルの受信機から流れる仕組みになっていた。

そこへ英語しか喋らないシェフ(平岡麻子)が食べたいメニューを聞きに来た。シェフとロガーの男は、お互いに相手と「クロス」しているのか心配だったが、ラジオから流れる同じ音楽を聞いていることを確認し合い、ようやく安心できたのだった。やがてコシバもロガーも支配人も、いつの間にか一枚のハガキを手に持っていることに気づく。自分で買った覚えがなく、そもそも郵便というシステムもすでに消滅しているのだから、これは「ドロップのトリガー」(時空の歪みに押し潰される前兆)ではないかと彼らは恐怖にかられる。しかし、確かなことは何もわからない。誰かが「昔は空間も見た通りつながっていた。今はどこかへ行こうとしても、辿り着けなくなったりする」と回想する。最後にシェフが作ったカレーを4人で食べるシーンでは、彼らは災害現場からの避難民といった様子にも見えた。そんな変わり果てた世界の複雑さに疲労困憊した彼らにとって、みんなでの食事は唯一ホッとできる時間のようだ。

この作品では、均質的な時間と空間がどこまでも広がっていたようなかつての世界が失われたことを「世界の終わり」と呼んでいる。しかし、世界が終わったということは、新しい世界が始まっていることと矛盾しない。そもそも「世界」という概念やイメージ自体、人間が作り出したものに過ぎないのだから、再び立ち上がる勇気がある限り、世界は何度でも始めることができるのだ、というメッセージを受け取ったような気がした。